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2011-10-07

二〇一一年八月二十二日(月)

 どうやら私の遅筆ぶりは輪をかけてひどくなっているようだ。”加速する遅筆”―――もはや速いんだか遅いんだか、字面だけ見るとよく分からなくなってしまうが、八月のことを十月になってやっと書いてるってことは、やっぱり遅いんである。

 八月から九月にかけて、ちょっとばかし手を取られることがあったといいますか、ただ単に時間の使い方が下手で悶々としてしまったといいますか、日頃の私に似合わず、”なんかしらんが忙しい”という状態だったため、ブログがなかなか書けずにいたのだが、最近、気持ちが落ち着いてきたので、「よっこらしょ」と重い腰を上げている。”なんかしらんが忙しい”時期が過ぎてしまうと、またいつものような毎日。

 と、いうのも―――、三月十一日の東日本大震災以来、こまごま・あれこれと考えるところがあって、何か人や社会に対して役立つようなことがしたいと思っていた矢先、七月に入ってから、たまたま我が町の社会福祉協議会の職員募集のお知らせがあったので、それに応募して、色々試験を受けていたのである。被災地の直接的な支援になるわけではないけれど、地元の高齢者や障害者のために働くことができれば、それが自分にとっても社会にとっても、ゆくゆくは、ちょびっとくらいはプラスになると思ったのだ。

 ただ、私本人の根本的な弱点として、大学で専攻していたのは、どうにもこうにもつぶしの利かないキリスト教神学であった。福祉の専門的な勉強をしてきたわけではないので、社会的関心は持っていても、学問としての福祉の知識は皆無。エントリーしたものの、(どうせ一次試験で箸にも棒にも引っかからず、きれいに落とされるに決まっちょるわい!)と考えていた。考えていただけでなく、試験てものが三十五歳の人間にとってはあまりにも久々過ぎてナーバスになってしまい、「逃げちゃダメだ…逃げちゃダメだ…。こういうのは結果じゃないんだッ! 参加することに意義があるんだーッ!!」と、オリンピック選手でもないのに、そんなことを口走ったりしていたのである。ところが、予想に反して、第一次の学科試験に合格したんである。その合格通知が届いたのが八月中旬。そして、その合格通知には、今度は九月十一日に第二次試験を行うから、会場にゼヒ来てね、と書いてあった。

 ―――…欲が出てしまったんだと思うんだ―――。
 大して勉強もせずに臨んだ職員採用試験。大学卒業程度の学力が必要とあったから、英語だけは大学受験時(大昔である!)に散々お世話になった『即戦ゼミ』(←英頻とも云う)で、復習だけはしといたものの、それ以外は、どんな科目が出るのかも難易度も分からないから基本的にほったらかし。実際に受けてみると、数学的思考が問われる設問もあれば、睨んだとおり、英文読解や国語現代文読解、理科や歴史、政治・経済、推理力を計る問題までバラエティに富んでいて、まぁ、簡単な算数すらできない私にとっては数学問題はどんなに考えたところで答えを導き出せなかったし、反対に、それ以外の科目に関しては、遠い記憶を引っ張り出しながら考えれば、まぁ解かるかも、という感じであった。

 楽して受かってしまったがために(二次試験もイケるんじゃないか、コリャ!)と調子に乗り、欲をかいたのが失敗の元だったように思う。二次試験に臨んでみると、一次試験時の三分の一くらいに受験者は減っており、周りは、いかにも大学の福祉学科で一生懸命勉強してます、みたいな若い人たちばかりであった。口頭試問の一つでグループディスカッションの時間が三十分設けられていたので、そこで話を聞いてみると、本当に(←というか、当たり前なんだが)福祉専攻だったり、親が福祉関係の施設で働いているといったようなコネのありそうな子までいたのだ。素人人間は私だけ!? それでもう、私の緊張は一気にピークに達してしまい、その後のもう一つの口頭試問(個人面接)はもう散々だった。噛みまくったし、自分でも何を云っているか解からないくらい支離滅裂だった。もともとが棚ボタのような合格だったのだから、(ここで落ちても、ワシは構へんのじゃー!)くらいな気楽さで受ければ良かったんだろうが、一次試験での合格を無駄にしたくない!と、力んでしまったがために、完全に空転・空回り・空中分解してしまったのだ。

 結果は推して知るべし。
 「貴殿の才能を十分に生かし、地域福祉にご尽力いただきたいのはやまやまなれど…」
「今回の職員採用は必要最小限に留まるものでして…」
「末筆ながら、貴殿のますますのご多幸とご発展をお祈り申し上げます…」
―――いやいや、いいですよ。そんなワタクシごときのご多幸とご発展を末筆ながらお祈りしてくれなくとも…。
だって本当のところ、試験に落ちた人間ひとりひとりのシアワセなんて、あーた方、これっぽっちもお祈りなんてしてないでしょう?
私、常々感じるんだが、「末筆ながらお祈り」なんてしてくれなくて良いから、「今回は貴殿のこんな所がダメだったのです」と、単刀直入に書いといてくれたら良いのに、と思うんだな。そうした方が、私を含めて試験に失敗した人たちも、次回どうすれば合格に近づけるか、どんな対策を取れば良いかの示唆が得られると思うんだ。
「貴殿の三十五歳という年齢が、実はビミョーだったのです」
「貴殿のキリスト教を勉強していたという学歴が、ここでは受け入れられないのです」
「そもそも貴殿は面接で噛みまくりだった」
「表向き、資格不問で募集したけど、率直に云って、やはり介護福祉の資格を持っている者が望ましい。貴殿は、表向きの募集要項に引っかかったお調子者だったのです」などなど。きつくても、その方がお互いのためになるような気がするんである。

 自分の伝えたいことが、面接で全然、ちっとも、これっぽっちも上手に話せなかったことについては、今でも思い出すたび、悶々、鬱々、懊悩し、心愉しまざりけりな私である。

 最近買った本の話題にたどり着くまで一体何行書いてるのか知れないが、どうでもいい近況報告はもう少し続きますゾ。

 一次試験の合格通知を受け取ってから二次試験を受けるまでの期間、主に八月だが、私は正体不明のブツブツに悩まされていた。
ぶつぶつ①mini
主に右手の親指、人差し指・中指に数知れないブツブツが集中して出来てしまった。 
ぶつぶつ③mini
写真ではなかなか見えにくいが、水疱に水疱が重なってボコボコの指。ブツブツだけ写したのでは気持ち悪いので、さりげなく観葉植物も入れてみました。
ぶつぶつ⑤mini
人差し指が最もひどかった。

 このブツブツができ始めた頃、手足口病が大人の間でも流行っているというニュースが流れていたために、(すわ! これぞ手足口病では!?)と疑ってかかっていた。それか、体が疲労している時に出てくるという噂のヘルペス。お箸が持てないくらい、痛くて痒いので、お隣のY市にある皮膚科専門のM医院に行って診て貰うことにした。

 これまで皮膚に関して特に悩んだことがなく、皮膚科専門のM医院も初めて訪れたのだが、診察室に入ってみると、若い頃はさぞかしお綺麗だっただろうというような、色っぽい雰囲気満載のM女医が待ち受けていた。M(マゾ)の女医ではない。Mさんという名の女医である。そのM女医に、右手全体に気色の悪いブツブツがブワァーッと出来ていることを、手を差し出しながら告げたところ、彼女は私の手をとるでもなく、患部をじっと観察するでもなく、ただ一瞥して、こう云った。
「あ。これね。夏場によく出る普通のブツブツなのよ~♪ 今年はものすごく患者さんが多いの♪」
(エッ!?) 私はちょっぴり心外だったものである。「こんなに痛くて、痒いのに?」
「そうなの~。痒いでしょ~う? これ夏場に汗をよくかいた時に出来やすいブツブツなのよ~♪ しかも、よく使う利き手の三本指に出やすいの♪ あなたもそうでしょう? ウフフ♪」
(ウーン…、そういわれてみれば確かに、親指・人差し指・中指の三本がものすごいんだよなぁ)と、じっと手を見ながら、私はこうも考えていた。(病院嫌いの私がせっかくこうして勇気を出して診察にまかり越したのに、よくある普通のブツブツとは何事であるか)と。

 私は典型的な病院嫌いで、そんな私が病院に行く時といったらもう、大抵症状が重くなってからというのが我が家の常識である。ちょっと変な考え方だが、せっかく嫌いな病院に行くのだから、どうせなら大事(おおごと)になっていて欲しいというか、「よく、こんなになるまで我慢してましたね」とお医者さんに云わせたら勝ちというか、とにかく普通じゃない症状が望ましいのである。でなきゃ、ふり絞った勇気がもったいない。そんな私の信条を知ってか知らずか、M女医は「普通のブツブツ」とのたまったのである。

 「先生、でもね、こんなところにも結構できてるんですよ、ホラホラ」「あ、そうそう左手もね、何個か水疱が出来てるんです。ホラ、ここ」「足のすねにも、ポチッと出来てるの発見したんです。えーと、どこだったかな」体じゅうのブツブツを探し出してはアピールを繰り返したものの、診察結果は変わらず、夏場に出来る普通のブツブツであった。

 「手足口病かな?と思ってたんですけど…」私はとうとう切り札的台詞を、ぼそっと口にしてみた。しかしながら、私のように利き手の三本指に集中して出来るものは手足口病の症状ではないんだそうで。
「…ヘルペスでもなく?」
「ヘルペスはねぇ、手に出来るのであれば、赤みの射したもっと大きな水疱が腕全体にバぁーッと出て、ものすごく痛いからすぐ判るのよ~♪」
あっ、そう…。(な、な~んだ…)という、私のつまんなそうな表情には目もくれず、M女医は最後にこうのたまった。
「あなたのは普通のブツブツなんだからヨカッタじゃない? 他人に伝染(うつ)しちゃうわけでもなし、自分が痛いがゆいだけなんだから安心なさいよ~♪ ハイ、お大事に~♪」

 私は処方された塗り薬を握りしめながら、敗残の身を抱えて帰路に着いた。

 そんなこんなで、普通のブツブツだらけの私は、そのブツブツをもてあましながら、辞書を引き引き、アメリカ人の友人宛てに英語の手紙を書いたり、(二次試験どうしよう)とドキドキしてみたり、なんかしらんが忙しかったのである。本を買ったのは、アメリカの友人宛の手紙をやっとこさ書き上げて、郵便局に投函しに行った帰りであった。

今回購入した本
◎『三国志(一)』(小川環樹・金田純一郎 訳) 岩波文庫 第二十八刷 700円+税
◎『三国志(二)』(小川環樹・金田純一郎 訳) 岩波文庫 第二十七刷 700円+税
◎『日本沈没(上)』(小松左京) 小学館文庫 第六刷 571円+税
◎『日本沈没(下)』(小松左京) 小学館文庫 第五刷 571円+税
◎『はい、こちら国立天文台 星空の電話相談室』(長沢工) 新潮文庫 初版 438円+税
◎『MM9』(山本弘) 創元SF文庫 初版 860円+税

 六冊目『MM9』のMとは、決してM女医のことではない。モンスター・マグニチュードという造語の頭文字である。今回の六冊は「F本市場」で購入したので、ディスカウント価格だったのだけれど、やはり、ブツブツのことやら試験のことやらで頭がいっぱいだったのだろう。うっかりレシートを捨ててしまって、実際の購入価格が分からなくなってしまった。上記に書き留めたのは、正規の価格である。

 気ぜわしい期間もどうにかこうにか過ぎ、現在は吉川英治の『三国志』を再々々読(多分)している。皆さんは、秋の夜長をどんな本を読んで、あるいはどんなことをしてお過ごしだろうか。

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2011-09-02

二〇一一年八月八日(月)

 八月上旬のことを九月に入って、やっとこさ書く。相変わらずの遅筆ぶりに、かえって自分らしさを見出したりなんかして。

 しかし今回は、いつも書いているY市の「ブックランドT書店」での本のお買い物ではないのですよ。星降る町・K市のショッピングモール内にある「ブックランドT書店」なのだ。この日は、母が夏休みを一日取得したので、母の買い物にお供してのK市行きなのである。

 私が山口県在住なのはバレバレであるため、はっきり云って星降る街・K市なんて書いたら、それはもう「下松(くだまつ)市」しかないわけで、伏せ字にしてみたところでまったく意味がないのであった。ついでにバラしてしまうと、ちょいちょいお邪魔するY市は「柳井(やない)市」なんである。山口県発祥のカジュアル衣料製造販売企業・ユニクロでおなじみの柳井正社長とおなじ「柳井」だが、かの社長はこの柳井市ではなく、宇部市の出身らしい。

 「下松市」がどうして星降る町とよばれるのか。それは推古天皇の時代、この地にあった老松に、巨星が降りおりて七日七晩光り輝いたという伝説にちなんでいるから。なんでも百済(くだら)からやって来る琳聖(りんしょう)太子が日本の聖徳太子と会見するのを守護するために舞い降りた星の精であったとか。松に降(くだ)ったから「降松」、時代と共に「下松」になったというわけ。他府県の方は「しもまつ」と読んでしまいがちだが、星が松に降ったので「くだまつ」と覚えてくださいな。

 もはや何の意味も見出せないが「ブックランドT書店」の「T」の部分は、まだ伏せておこう。

今回購入した本
◎『箱男』(阿部公房) 新潮文庫 第五十四刷 438円+税

 普段は観念的な小説や抽象的内容の本の類は殆ど読まない。どちらかというと、歴史小説や神話・伝承、人類が大昔から送ってきた生活をもとに紡ぎ出されるような、こまごまとした具体的内容の本を読むことが多い私である。

 ただ以前、阿部公房の『砂の女』を読み、感想を書いた時、その作品の内容がぼんやりと抽象的なために、むしろ人間存在とか日々生きることとか、色々と考えをめぐらせることが出来たので、『箱男』でもそんな感覚を味わえたらいいなと思い、購入した次第。読みたい気分を醸成するのにしばらく時間がかかるかもしれないが、いい感じに『箱男』を寝かして発酵がうまくいったら読んでみよう。発酵待ちの本ばかりだけど。

箱猫mini

うちの猫、オトちゃんに箱に入ってもらおうとしたが、興味がないみたい。

仰向け&口開きmini

暑い時期はフローリングでお腹を出して、口を開けて寝る。それがクロちゃんの睡眠スタイル。
全身真っ黒の猫を撮影するのは、かなり難しい。どうしても強制フラッシュになって、猫の表面がヌメヌメしてしまいます。


ぬいぐるみmini

こ汚いぬいぐるみと共に。去年、我が家に猫たちがやってきた時、二匹とも雌(メス)と紹介したはず。
しかしですね、二匹とも雄(オス)だということが、おいおい判ってきまして。いままで雌猫としか生活したことがなかったので、よく区別できなかったんですが、何もないと思われていたところが、段々とふくれてきましてね…。ええ、「ふぐり」「ふっくり」「ふくれて」きたんです。

クロちゃんアップmini

そんなわけで二月下旬に去勢手術を受けてもらいました。

まともな写真mini

クロちゃんの写真、やっとまともなのが一枚撮れました。去勢してからというもの、太りやすくなったようで、お腹の肉がたるんたるんです。

兄弟愛mini

去勢したことでストレスが無くなったらしく、毎日を兄弟穏やかに暮らしています。たまに新潮文庫のスピン(ひもの栞)を噛み千切られるのが悲しいけれど、元気なら良しとしましょう。
とにかく、うちの猫たちが男の子だったということを訂正しておきたいがために、無理やり、猫の話題も放り込んでみました^^;

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2011-08-30

『黒い雨』(井伏鱒二) 新潮文庫 七十刷 590円+税

 私の母方の曾祖父母、および彼ら夫婦から生まれた祖母は広島の人間である。家は、横川駅から太田川に沿って北へ少し上がった所にあったらしく、母と山陽本線に乗って山口~広島間を行き来する時には、横川駅を通過するたび、「お母さんが小さい頃は、夏休みなんかに、ここから太田川を上(かみ)に行って、お爺ちゃんお婆ちゃん(私にとっての曾祖父母)の家に遊びに行きよったんよ。山に近かったけー、涼しくてね」などと教わっていた。

 横川駅と原爆ドームは直線距離にして二キロメートルあるかどうか、といったところだろうか。原爆投下時、曾祖父母が横川の自宅にいたのか、それとも広島県のどこか別の場所にいたのか定かではないが、やはり、というべきか、彼らはピカによって被爆した。その後の人生は二人とも被爆者手帳とともにあり、それでも、曽祖父については、戦後三十年の一九七五年(昭和五十年)、私が母のお腹の中にいる頃まで頑張って生きてくれていた。胎児だった私も、もう少し気を利かせて、早めに「おぎゃあ!」と生まれて来ていれば、曽祖父もひ孫の顔を見てから、あの世へと旅立てたかもしれないのだが、なかなかそうはいかない。残念なことであった。

 曾祖父母の娘、私にとっての祖母だが、この人は娘時代には原爆ドームで働いていた。といっても、一九四〇年代当時は『広島県産業奨励館』といって、舶来品や地域の物産を紹介したり、美術展などの催し物を開催したりと、最先端の情報を発信する、それはそれはハイカラでハイソサエティで非の打ち所のない美しい建造物であったのだ。チェコ人、ヤン・レッツェル設計。このハイカラでハイソでモダンな『広島県産業奨励館』は、祖母を含む広島のモボやモガたちが、誇りと共に日々仰ぎ見たくなるような美麗なドーム屋根を有していた。あの日、エノラ・ゲイが、何の前触れもなくピカを落としてくるまでは。

 広島市上空にピカが投下された時、祖母は産業奨励館にはいなかった。この「いなかった」事情がどういうものなのか、詳しくは分からないのだけれども、戦争激化にともなって、ピカが投下される前年の一九四四年(昭和十九年)には産業奨励館としての業務は廃止され、内務省中国四国土木事務所広島県地方木材株式会社といった機関の事務所として使用されていたらしいから、祖母はその頃には退職していたものと思われる。祖母がいつ頃、山口県の祖父のもとへと嫁いできたのか、これも詳しい年月日を知らないのだが、ひょっとすると退職を機に結婚して広島を離れ、爆死を免れることができたのかもしれない。頭上で炸裂した原子爆弾が、ピカッと閃光を放って、ドンと凄まじい爆裂音が轟かせたその一瞬間に、館内にいた職員たちは全員即死していた。ここにもし祖母が残っていたら、祖母から生まれてきた母も、そして私も、決してこの世に存在することはなかっただろう。

 『原爆ドーム』なんて云うと、爆撃直後から現在までの歴史しか示していないようで、私たち家族にとっては少々寂しいような気がしてしまう。祖母が青春時代を過ごした職場であったという、爆撃前の歴史も大事にしたくて、我が家ではいまだに『産業奨励館』と呼ぶことも多い。それくらい、私にとっても母にとっても、今の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)や横川駅は、思い入れの強い場所なのである。そして、井伏鱒二が遺した小説『黒い雨』の主人公・閑間重松(しずましげまつ)が被爆したのも、この爆心地から程近い横川駅のプラットフォームであった。

 『黒い雨』は、閑間重松とその妻・シゲ子、そして姪であり養女でもある高丸矢須子、この三名の戦中日記によってその大部分が占められている。本作品は、戦後数年を経てから、重松が自分の日記と矢須子の日記を清書し直していくというスタイルで進められており、我々読者は、彼らの日記を読むことで、原爆投下直後からの広島市内の様子を知ることができるようになっている。なぜ、作中で重松が家族の戦中日記を清書しているのかといえば、それは矢須子の縁談を無事に取りまとめる目的のためなのであった。矢須子は年頃の娘で、良家との縁談が持ち上がったばかりなのだが、彼女が原爆症に罹っているのではないかという噂が断続的にちらほらと流されるために、これまでどうしても縁遠く、養父の重松としては、矢須子の原爆症の疑いを晴らすために、原爆投下時の閑間家の行動を再度検証する必要があったわけだ。

 文章の主な構成は以下のとおり。
◎高丸矢須子の日記。(昭和二十年八月五日から八月九日までの分)

◎閑間重松の被爆日記。矢須子の日記の付録篇として。学校の図書室に納めるつもりだが、その前に矢須子の縁談の世話人にも見せようと考えている。(昭和二十年八月六日から終戦の八月十五日までの分)

◎閑間シゲ子の手記。矢須子の日記の付録篇として。タイトルは『広島にて戦時下に於ける食生活』。

◎閑間シゲ子による『高丸矢須子病状日記』。(矢須子の縁談が持ち上がったのが、終戦後の四年十ヶ月目とあり、その後、原爆症を発症するので、おそらく昭和二十五年の七月二十五日から七月三十日までの分)

◎湯田村・細川医院院長の義弟による手記。タイトルは『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』。(昭和二十年七月一日・赤紙召集~八月六日・被爆~戸坂の国民学校仮収容所~八月八日・自力での庄原国民学校行き~八月九、十日にかけての熱傷治療~八月二十三日・府中町の細川医院分院への移送~翌二十四日から原爆症発症により闘病生活という流れで記されている)

◎岩竹軍医予備員の奥さんの速記記録。夫である岩竹博の安否を確かめるため、噂を辿りながら、広島陸軍病 院焼け跡~戸坂国民学校~庄原国民学校と歩き回り、その庄原で夫を見つけ出したことや、彼の闘病生活について書かれている。

 すべての日記や手記は、広島に住む一般市民の視点から、体験者でないと決して語れない詳細さと共に、実に淡々とした筆致で記されている。戦争や原爆投下に対する声高で激しい疑問提示や反対論というものはほとんど見当たらないと云っても良いだろう。ただただ、自分たちが見聞きし、体験した、八月六日から数年後までのことが、克明な観察記録として我々読者の前に披露されるのである。国家戦略だの政治的意図だのを背負っての、わざとらしく飾った言辞とは違う、一般市民の生の声が本作品には表現されているように思う。

 それだけに、戦争さえなければ、家庭内の出来事や学校や職場で経験したことなど、ささやかな幸せと悩みが書き綴られるばかりであったろう普通人の日記に、赤ん坊を抱いたまま焼け焦げた母親や水を求めて防火水槽に顔を突っ込んだまま腐乱した遺体、不気味な色を放ちながら濛々と上空へ昇っていくキノコ雲の恐ろしい様子、肉親が見ても、それが自分の身内とは判らないほどの熱傷を負った市民の無惨な姿などの描写があるということの異常さが際立つ。戦争をおっ始め、それを継続するのに、どんなに正当な理由があるように思えたとしても、何の罪もない国民にこんな酷い日記や手記を書かせるようなことを、国家は絶対にしてはいかんのだという、静かな反論がそこにはある。

 矢須子と自分の日記を清書するうちに、重松は、矢須子が黒い雨を浴びていた事実に突き当たってしまう。重松とシゲ子、そして矢須子の三人は、原爆投下時、それぞれ別々の場所(重松は横川駅、シゲ子は千田町の自宅、矢須子は古江町)にいて爆死からは免れたものの、一緒に避難するために広島市内を長時間にわたって歩き回ってしまったのである。矢須子にいたっては広島市から十キロメートルほど離れた古江町にいたにもかかわらず、重松夫妻と合流しようとして入市し、彼らと再会できた時には既に、その肌や衣服にコールタール状の黒い雨だれの痕を付着させていた。洗っても洗っても、なかなか拭い取れない油脂のような黒い染みが、数年を経て矢須子の体に重篤な健康被害をもたらすようになるとは、その時の重松らには予想することすら出来なかったのであった。

 皮肉なことに、縁談の取りまとめに先立って、矢須子の健康を証明しようと、重松が日記の整理を始めた頃に、彼女は原爆症を発症してしまう。発熱から始まって、臀部(でんぶ)の腫れ物、頭髪の脱毛と続き、激しい耳鳴り、歯茎の発赤腫脹、全身の疼痛、白血球異常などで、彼女の体は急速に衰えていった。自宅で看病するには限界があり、矢須子は九一色(くいしき)病院に入院。重松は、原爆症の噂によって姪が縁遠くなってしまったことに加え、実際にその原爆症を患ってしまった事実について、ずいぶんと責任と負い目を感じている。

 そもそも、矢須子を養女として広島市に呼び寄せたのは、ほかならぬ重松だったのである。姪の矢須子を、戦時中の厳しい徴用から逃れさせ、比較的安楽な仕事をさせるために、実家の高丸家から広島市内に住まわせ、コネを使って、日本繊維株式会社・古市工場に受付係として勤務させたのが重松だったのだ。しかし、広島への原爆投下によって、かえってそれが裏目に出る形となってしまった。矢須子本人に対しても、実家の高丸家に対しても、申し訳が立たないと落ち込んでいるのが閑間重松なのであった。

 重松とシゲ子は、何とかして矢須子を助けてやりたいと、藁をも掴む気持ちでいる。そんな時に、湯田村の細川医院の院長先生から手に入れたのが、先に挙げた『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』と、その岩竹さんの奥さんの手記である。この岩竹さんという人物は、細川医師の妹婿すなわち義弟である。軍医予備員として徴兵された矢先、広島で被爆するのだが、全身にわたる重度の熱傷という重い症状を抱えながらも、命からがら湯田村まで帰還した人である。火傷で組織が崩れた耳や頬に大量の蛆虫が湧き、その蛆虫に右耳を食いちぎられ、手の指も溶けてくっ付いてしまい、板切れのようになった状態で闘病生活を送り、奇跡的に回復したという経歴を持っている。手記には、輸血、リンゲル注射、桃や生卵などによる食事療法といった岩竹さんの闘病の様子が事細かに書かれており、それが矢須子の治療にも参考となる部分があるのではないかと、重松たちは九一色病院に提出したのであった。

 このくだりで、ひとつの「ゆらぎ」のようなものを読者は体験することになる。この『黒い雨』という作品は、原爆投下や広島市内における死屍累々の惨状といった、決して尋常ではない、想像するだにも恐ろしい様子をあくまで淡々と語り、透徹した観察眼でもって進行されてきた。あえて云えば、小説の材料としては山場だらけの原爆投下日から終戦日あるいは数年後までを、平板な調子で、ほとんど起伏なく語っているのである。したがって一見すると、小説全体としての盛り上がりはどこにも無いようにも思えてしまう。ところが、シゲ子から『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』を手渡された九一色病院の院長先生が、それを読みながら、ふと奇妙な表情を浮かべるのである。戦後の穏やかな夏の日、九一色病院内での「ゆらぎ」は、岩竹さんの手記のこのような記述に端を発している。

 次に、各自一人ずつ中佐の前に出て行って、姓名と前歴を申告し、なぜ今まで軍医予備員に志願しなかったかという詰問を受けた。自分は第一師団と広島連隊区に昨年一月送附済の一件書類を奉公袋から取出して、この通り志願完了していて未志願でないことを具申した。それで訊問は尻きれとんぼに終った。しかし自分より先に訊問を受けた人たちも、あとに続く人たちもすべて志願書を出している。去年も一昨年も召集を受け、体質的欠陥のため即日帰郷となっている連中が多かった。
 なるほど体格検査が始まると、集っている連中のうち、羨ましいと思われるような体格の者は殆どいなかった。脊椎カリエスのためコルセット持参の者、頸腺炎(けいせんえん)で繃帯(ほうたい)した者、肋骨カリエスの瘻孔(ろうこう)のあとのある者、学生時代に運動会で足を折って膝が半分しか曲らなくなっている者もいた。
(中略)
 レントゲン透視と喀痰(かくたん)検査の結果、即日帰郷となった者も何人かいた。病院の医師欠乏という理由から帰郷させられる者もいた。奉公袋をさげて殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して帰って行く人が羨ましかった。


 上記の文章をシゲ子の目の前で読んだ時の、九一色院長の様子は以下のようなものであった。
「この岩竹さんの手記、あたしの見ている前で院長さん読んだんよ。読みながら、院長さんの表情に微妙なものがあったんよ」
「それで、治療法について、院長さん何か云ったか。それが大事なことだ」
「読みながら、二度ほど参考になりますと云ったんよ。それから読んだ後で、実は自分も広島二部隊に軍医懲罰召集で入隊したと云ったんよ。岩竹さんの入隊したのと同じ日に、同じ部隊へ入隊したんですって」

「でも、あの院長さん生きておるじゃないか」
「入隊した日、体格検査で即日帰郷になったんですって。そのときにはカリエスで、石膏の繃帯を下腹に巻いておったんですって。運不運の二筋道は妙なものね。院長さんは顔をしかめて読みながら、一度ぐっと息を嚥(の)みこんだんよ」

 岩竹さんの手記にある「脊椎カリエスのためコルセット持参の者」というのが、この九一色院長であったかどうかは判らない。しかしながら、「殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して帰って行く人」の中に、この院長先生が含まれていたことは疑いないわけで、カリエスによって徴兵されず被爆をからくも回避できた自分と、徴兵されたがために原爆によって瀕死の重傷を負い、原爆症と苦闘し続けた岩竹さんとの運命の対比があまりにも鮮やかなこの手記をゆくりなくも眼にして、九一色院長の胸には一体どんな感情が去来したろうか。

 自分が被爆せずに済んだ裏側で、この岩竹軍医予備員のように死の苦しみを味わった人がいる。過酷な原爆症を乗り越えて生き返った彼と違い、病気で兵隊にも取られることなく、御国の為に戦うことも避けられた自分。誰がなんと言おうとも、生きて息災ならばそれが一番の親孝行だ。だが当時は、兵隊にも行けない九一色院長のような繊弱な人は、陰で後ろ指を差されることもあったろう。想像を絶する苦痛を味わった岩竹さんと、安全な場所で医療に従事できた自分。岩竹さんの手記は、自分自身のための覚え書程度のものであったろうけれど、九一色院長にとっては「殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して」即日帰郷した自分への無言の告発のようにも思えたかもしれない。

 ごく小さな「ゆらぎ」なのである。淡々と展開していく本作品にあって、ほんの一瞬、さざなみが立ったようなものなのだ。原爆投下直後のことを書いた重松の日記でさえ、冷静な目で現実を見つめた末の文章だったのが、戦後数年経ってからのシーンにおいて、一人の医師の胸に微小な棘(とげ)が刺さるように「ゆらぎ」が起こる。しかし、小さいながらも井伏鱒二のその演出があまりにも巧みで、はっきり云って参ってしまった。平和を取り戻した戦後の夏のある日、ひっそり閑とした印象の九一色病院の一室。蝉の声だけが喧(かまびす)しい診療室で、院長が岩竹さんの手記に目を通した時…―――、シゲ子が云うところの「運不運の二筋道」を眼前に突きつけられて、ハッと彼が息を呑むのと同時に、あれだけけたたましく鳴いていた蝉が、一斉に鳴くのをやめてしまったような、そのとき真の静寂が訪れたような、そんな情景まで想像させる「ゆらぎ」なのであった。

 矢須子の病状が好転するか否かについては、作品の結末においても何も書かれてはいない。おそらく回復は無理だろうという雰囲気の中で、重松が、それでも矢須子は治るかもしれないという、儚い望みを抱いているところで物語は終わる。こんな不幸が起こるから原爆は絶対に駄目なんだ、というような論調よりも、原爆が落とされたことで、こんな不幸が起きてしまったよ、君はこれをどう思う?と語りかけるような作品である。重松の静かな語りかけを感じたら、『黒い雨』を読む人々には、広島と長崎に投下された二発の原爆について、ほんの少しで良いから思いを馳せて頂きたいと、私は願っている。 E=mc² の関係式が人間の頭上に、何も知らされずに降ってきた時、生身の人間がどうなってしまったのか、もう一度考えてもらえたら嬉しい。

 私は読後の感想を書く際、可能な限り正確さを期して調べなければいけない事柄のほかは、その作品の周辺情報をなるべく目に入れないようにしている。というのは、たとえそれが誤った、あるいは人とは違う印象、受け取り方、感想であったとしても、その時、自分が感じたことをそっくりそのまま引き写すようにして書き残しておきたいと考えているからである。色んな情報に影響されないで、自分の素の感想を真空パックしておきたいのである。大分あとになってから読み返してみた時、(ずいぶんバカなこと書いてるなぁ)と赤面してしまう文章も多々あるのだが、そのときの自分は確かにそう思っていた、という読書感想アルバムにしたいわけだ。

 だが、今回は書いている途中で、『黒い雨』についてちょこちょこと調べ物をすることになった。その調べ物を通じて、この小説『黒い雨』に登場する閑間重松が実在の人物であることを知る。本名は、このシズマ・シゲマツをひっくり返した重松静馬という人なのだが、彼が自身の被爆について書いた『重松日記』を、知人である井伏鱒二が手にし、それを基に『黒い雨』は書かれたのだそうだ。ちなみに被爆軍医である岩竹さんも実在の人物であり、『岩竹手記』を遺している。『重松日記』は現在、筑摩書房から文庫が出ているそうで、その中に『岩竹手記』も併録されているとのことなので、是非手に入れて、こちらも読んでみるつもりでいる。

 思えば、戦時中の様子を、当たり前といえば当たり前なのだが祖父母たちは語りたがらなかった。産業奨励館に勤めていた祖母が亡くなる前に、山口県の周防大島町にある『陸奥(むつ)記念館』に見学に行ったことがある。私が大学一回生の頃だったから、もう十七年も前のこと。『陸奥』は旧日本海軍の戦艦で、『長門(ながと)』の姉妹艦だったのだが、一九四三年(昭和十八年)に謎の爆発を起こし、広島県柱島付近で約千五百人の乗組員を乗せたまま沈没した艦として夙(つと)に知られている。その『陸奥記念館』を、私は祖母をいざなって何の気なしに観て回ったのだけれど、館内から出ると、祖母は腰を下ろして溜息をつくなり「…あねぇなのは(ああいうものは)よぅ見んねぇ…」と小声で呟いたのだった。肩が落ちてしまって、小柄な体を余計に小さくして、しょんぼりと萎れた祖母の姿を見て、私は心底悪いことをしたと後悔したものである。それ以来、私が戦争関連のことを祖母に尋ねることは一切無かった。タブーなのだと思った。

 それでもしかし、我々は戦争や原爆について、知りうる限りのことを次代に伝えていかなくてはならないだろう。戦争や原爆の恐怖を、実体験として心の奥に閉じ込めている世代が、もうかなりの高齢になっている。亡くなっていく方々も非常に多い。戦争体験を根掘り葉掘り聞くのが、聞き手にとっても話し手にとってもつらいならば、せめてこうして、当時のことが書かれた本を読まねばなるまい。今を生きる現代人は皆、すべからく、戦乱を生き延びてきた人々の子孫なのであり、どんな人間も、その血脈をさかのぼっていけば、必ず戦争を体験した先祖に行き当たる。なにも、太平洋戦争に限らなくてもいい。第一次世界大戦、日清・日露戦争、ひょっとすると応仁の乱で、生き延びてくれた先祖だってあるかもしれない。その人が戦禍に屈することなく、生きて、命のバトンを渡してくれたからこそ、今の自分があるということを再認識せねばならないのだと、私は思っている。歴史を学ぶとは、そういうことで、自分とは無関係に存在する遠い過去ではないのだ。どんなに幾多の時代が過ぎ去ったとしても、必ず自分の命とつながっている現実だということを、私自身も肝に銘じておきたい。

 私も戦争を知らない世代であり、不勉強さが目立つ人間ですので、こんなことをいえる資格は無いのですが、今年も若い学生の皆さん、広島や長崎の地から遠い地域にお住まいの方々、外国からいらした方々など、数多くの様々な方達がピカについて関心を持ってくださいましたことを心から感謝いたします。有難うございました。


                              平成二十三年四月二十二日 読了

 広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアムで原子爆弾について学習することが出来ます。(冒頭のアニメーション部分で音声が流れます。音量にご注意ください)

 山田ギョクトのウェブ本棚・デジタルアルマリウムでは、この記事にある引用文以外の文章をいくつか引用しています。(現在、上から四段目の一番左に『黒い雨』を入れてありますので、いつでもご覧ください)

theme : 本の紹介
genre : 学問・文化・芸術

2011-07-21

二〇一一年七月十八日(月)

 十六日(土)から十八日(月・海の日)にかけてのきらきら輝く夏の貴重な三連休を、とりたててデートの予定も何にもない、そもそも彼氏もない、くびれもない、ないない尽くしの私は、叔父のラーメン屋の手伝いにいそしみ、地域の氏神様の夏祭り(田頭祭)にちょっとだけ顔を出し、本を一冊買っただけで終えてしまった。むなしい。

 本を購入したのは、おなじみの隣接市・Y市にある「ブックランドT書店」である。
今回は本を買うというよりも、勇気を出して、幻冬舎アウトロー文庫から出ている『家畜人ヤプー』(沼正三)を注文しようと思っていた。なぜかというと、このところ私は『ちくま日本文学018 澁澤龍彦』(解説:養老孟司)や『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(三島由紀夫)といった、マルキ・ド・サドについて書かれた本をちょいちょい読んでいたからだ。マルキ・ド・サド(サド侯爵)とは云うまでもなく、「サディズム」「サディスト」といった言葉の語源になった人物で、十八世紀から十九世紀にかけてのフランスの作家。本名は、ドナティアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドという。

 サドのことを読んでいて、なんでヤプー?と思われるかもしれないが、加虐性愛者の反対側には被虐性愛者がいるわけで、上記の本を読んでサディストの心理をたどっているうちに、マゾヒストの心理も知りたくなってしまったのだ。『家畜人ヤプー』は、私が持っている幻冬舎アウトロー文庫の新刊・既刊紹介頁に、そのタイトルと簡単な紹介文が掲載されていて、十年近く前から(ヤプーってなんなんだろう?)と気になってはいたのだが、『家畜人ヤプー』がマゾヒストによるマゾヒストのための小説だということを知ったのは、ごく最近の話である。どうでもいいことではあるが、「マゾヒズム」「マゾヒスト」などの語源になった人物は、こちらも十九世紀のオーストリアの作家、ザッヘル・マゾッホである。どうせ「マゾ」という単語を口に出すなら、「私、マゾッホなんですぅ」くらい云ってみたい。

 痛いのも熱いのも、こねくり回されるのも嫌いな私だが、とにかくマゾッホたちの心理については知ってみたかった。で、(そうだ!ヤプー、買おう!)(←「そうだ。京都、行こう」くらいの爽やかさで)と思い立ったのだが…。

 しかし、実際に書店のカウンターに行ってみると、その勇気がまるで出なかった。
 第一に、私は全然アウトローな人間じゃないのに(?)、アウトロー文庫などと名のついた本を注文する気恥ずかしさ。私は「アウトロー」なのではなくて、ほんのちょっぴり変わっている程度の「変奇郎(ヘンキロー)」である。まぁ、一応女だから「変奇女」か?

 第二に、『家畜人ヤプー』そのものに対する気恥ずかしさ。カウンター内の店員さんが、この本を読んでいて、内容を知っていたらどうしよう? (ちょっと、お客さ~ん、こんな本注文するんですか~?)と、ニヤニヤされたらどうしよう?という不安である。

 第三に、『家畜人ヤプー』の表紙に対する気恥ずかしさ。幻冬舎アウトロー文庫版の『家畜人ヤプー』は全五巻で、そのどれもが金子國義氏の手による、なんともエロティックな絵で彩られている。角川文庫版『ドグラ・マグラ』の表紙は恥ずかしいとは感じなかったのに、『家畜人ヤプー』の表紙は恥ずかしい。そんなお年頃である。

 怪しいまでに定まらぬ視線で、しばらくカウンター前をうろうろしたが、どうにもこうにも「『家畜人ヤプー』を注文したいであります!」とは云えなかったので、今回は仕方なく角川ソフィア文庫の『古事記』を購入して、立ち去ることにした。

今回購入した本
◎『古事記 現代語訳付き』(中村啓信) 角川ソフィア文庫 初版 1124円+税

 この時ちょうど、『闇彦』(阿刀田高)についてのブログ記事を書いており、『古事記』について一から読み直してみたいな~と思っていたところだったので、何も買わずに書店を出るということが出来ない私は、とびつくようにしてこの本を手に取ったのであった。ヤプーが注文できなかったという敗北感でいっぱいだったため、文庫本のクセして、なんかお高い、ということにも気づかず、購入してしまった。まあ、それはいい。

 しかし『古事記』のような、ちょっと高尚に思われてしまいがちな本を購入した人間が、こののち、いつか『家畜人ヤプー』を注文するとなると、それはそれで更に注文しづらくなるような気がしないでもない。

 (ホラ、あの、いつもうちを徘徊するお客さん、こないだは『古事記』なんてカッコつけて買って行ったのに、今度は『家畜人ヤプー』なんて注文してんのよ~。どういう人なのかしらね~。もしかしてマゾッホなのかしら~)などと、書店員の間で噂になったらどうしよう? そんな妄想で脳中を満たしながら、七月の三連休は淡々と過ぎていったのであった……。

theme : ひとりごと
genre : 学問・文化・芸術

2011-07-19

『闇彦』(阿刀田高) 新潮社 四六判 初版 1300円+税

 『闇彦』というタイトルから、私は何かしら、神話の暗部だとか秘事だとかに沈潜していくような、追い落とされるような、そんなおどろおどろしい物語を想像していたのだけれど、実際に読んでみると、文体も展開も意外なくらいにあっさりしていて、水の上をたゆたうような印象のなかで読み終えることが出来た。

 日本の神話とまるで無関係なわけではない。秘事、謎といったような日本神話であまり深く語られてこなかった部分に、「海彦」「山彦」らにとっては三人目の兄弟であったかもしれない「闇彦」なるものの存在が見え隠れしており、その「闇彦」が、主人公の「私(弓彦)」の人生にも、時おり顔をのぞかせる。そして、その「闇彦」に関わる者たちは何故か皆、類まれなるストーリーテラーであり、人は、人類は、なにゆえかように物語を求めてしまうのかというテーマのもとに書かれているのが本作品である。

 私(弓彦)が、自分と闇彦との関わりを意識し始めたのは、物心がついて直ぐの頃からであった。双子の弟・吉彦が三歳で病死してからというもの、お守り役のお婆あが語る言葉の端々に、闇彦という名前が出てくるようになったからである。弟の吉彦は死者ではあるが私とともに同じように成長しているらしく、お婆あは「吉(よ)っちゃん、吉っちゃん」と呼びながら、死んだ弟のことを語る。時に「庭に来ている」と云い、「大きくなって、七五三でセーラー服を着ている」と云う。そして、それらのことは闇彦が教えてくれるのだ、とも。私は、眼には見えない闇彦なるものの存在があって、それは死者に関わる何かなのであろうと漠然と考えるようになる。

 小学六年生の時には、舟宮稲子(ふねみやいねこ)という物語の上手な女子と出会う。彼女は普段は目立たないのに、色々なお話を級友たちに話して聞かせるときだけは、皆を惹きつけてやまない不思議な魅力を発するのである。頭の中に入っている物語は数限りなく、そして人の死ぬ話が多くを占めていたようだった。そんな稲子は、学芸会で舞台に立ち、物語をするという大役を果たしてしばらくした後、不意に病死してしまう。葬儀は新潟県の海辺の村で執り行われた。私はクラスを代表して彼女の葬儀に出席し、馴染みのないしきたりに少々面食らいながらも、そこでまた闇彦の存在を感じるのである。薄闇の中で一本の蝋燭を手から手へと受け渡しながら、蝋燭を持っている者が故人について、短く静かに思い出を語る。浜辺で死者を納めた棺を筏(いかだ)に乗せ、火を点けて沖に流す。不思議な弔い方の背後で聴こえるのは、「向こうに島がある。稲子は闇彦の血だすけに」という年寄りの声だった。

 闇彦とは何なのだろう―――?
闇彦に関わるとされる人たちは、何故、お話が上手いのだろう―――?
なにより、人はどうして、お話を聞くことを求め、物語を読むことを好み、語られることに我知らず惹かれていくのだろう―――…?

そんなことを考えるともなしに考えながら、主人公の私(弓彦)は新潟を離れて東京住まいとなり、自らも小説家となる。自分自身も死んだ弟や同級生を通じて闇彦と繋がっているせいなのか、ごく自然にストーリーテラーになったのだ。

 同級生の舟宮稲子を弔って以降も、人生の其処ここで闇彦は私の前にふと立ち現れる。そして、闇彦の正体らしきものが垣間見えるきっかけとなったのは、西村夕海子(にしむらゆみこ)と舟宮糸子(ふねみやいとこ)との出会いであった。

 西村夕海子は劇団の女優であり、ギリシア人の血が八分の一だけ入った美しい女性。役者としての熱心さからか、自分の体内に流れるギリシアの血がそうさせるのか、或いはその両方か、夕海子は、演劇にも多大な影響を与え続けるギリシア神話に特別の関心を寄せているようである。一方、舟宮糸子は新潟生れで、血のつながらないお婆あに育てられている。昔病死した同級生・舟宮稲子と同姓だが、糸子と亡くなった稲子の間に関係があるのかどうかは分からない。だが、糸子を育てたお婆あの語る闇彦の物語がまた秀逸なのである。主人公の私は、この二人の女性から様々な刺激を受け、人間が物語りすることの本質というものを捉えていくようになる。

 夕海子はギリシア神話のオルフェウスエウリュディケの悲話が好きだという。竪琴の名手・オルフェウスとその妻・エウリュディケは仲睦まじく暮らしていたが、ある日、妻のエウリュディケが毒蛇に噛まれたことで突如死んでしまう。どうしても妻の死が受け入れられないオルフェウスは、冥府へと下って、冥府の王・ハデスとその后・ペルセポネの前で竪琴を奏で、妻のエウリュディケを甦らせてくれるように懇願する。オルフェウスの、涙を誘ってやまない竪琴の音色と哀願とにほだされたハデスとペルセポネは、オルフェウスにエウリュディケを伴わせ、冥府から逃がしてやることを決める。その際、王から付けられた条件が「冥府から脱出するまで、決して後ろを振り返ってはならぬ」というものであった―――。冥界の闇の中を、オルフェウスは妻を連れて地上へ戻ろうとする。行く手に光が見え始め、あともう少しで自分たちの暮らす地上へ出られるという時に…、オルフェウスは振り返ってしまうのである。妻がちゃんと付いて来ているか、不安に駆られた夫は、ハデスとの約束を破って、後ろを振り返ってしまったのであった。彼は妻の顔を一瞬見たものの、それが永遠の別れとなってしまった…。

 これと酷似した話が日本神話にもある。いうまでもなく、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)のエピソードである。イザナギとイザナミは夫婦の神であり、天地開闢(かいびゃく)以来、国産み・神産みを進めてきた。ところが、火を司る神・軻遇突智(かぐつち)を産んだ時に火傷を負い、それが元で、妻のイザナミは死んでしまう。夫のイザナギはどうしても諦めきれず、妻を取り戻そうと黄泉国(よもつくに)に赴く。イザナギは黄泉国でイザナミを発見し、彼女を連れ帰ろうとするが、イザナミが云うには「黄泉の国の食べ物を口にしてしまった以上、私は還れない」ということであった。しかし、イザナギはなおも彼女を説得し、根負けしたイザナミは「本当に還れないのかどうか、聞いてくるから待っていてほしい。その間、私の姿を見ないように」と条件を付けて一旦、夫の前から下がる。けれども、待てど暮らせどイザナミは姿を現さない。しびれを切らしたイザナギは、彼女が下がった辺りへ足を踏み入れ、そこで床に転がっている何かを見てしまう…。床に横たわったまま動かないそれは、イザナミの躰(からだ)であったのだが、よく見れば手足には恐ろしい雷神が取り付き、おびただしい蛆が湧き、腐乱している。妻の浅ましくなりはてた姿に肝をつぶしたイザナギは、黄泉国から逃げ帰ろうとする。自分のおぞましい姿を見られたイザナミは、黄泉醜女(よもつしこめ)らを使ってイザナギを追わせるも、彼は髪飾りや櫛を葡萄や筍に変えて時間稼ぎをし、最終的には桃の実を投げつけて黄泉国の追っ手から逃れることができたのであった。しかしやはり、死んだ妻とは永遠の別れをせねばならなかったのである。

 これらの物語を、夕海子はこのように捉えている。どんなに願っても、どんなに嘆いても、決して肉体的には戻ってはこない死者を唯一取り戻す方法があるとすれば、それは、恋しい人をもう一度振り返り、記憶にとどめ、語り継ぐことなのだと。

 冥府や黄泉の世界から突きつけられる「見てはならない」という禁忌は、死の世界に、生の世界の人間が立ち入ることはできないという暗示で、その「見てはならない」約束を破ってまで、生者の側がつい一瞬見てしまったり振り返ってしまったりする展開に至るのは、失ってしまった人の死に顔を、面影を、思い出を、もう一度目に焼き付けておきたいと思う人類の願望が物語化(神話化)したからではないだろうか。妻をこの手に取り戻そうとした男たちは、一瞬だけ死の世界を垣間見るが、見たことによって、死者と生者は決定的に違うこと、そして死んだ者は決して生き返りはしないことを思い知らされる。けれども、その一瞬の垣間見によって記憶された妻の面影を胸に抱き続け、恋しい人の思い出を物語ることで、彼らはこの世には既にいない人とも、永く共に生きることができるのである。

 そんな死者について語ることを宿命づけられたのが闇彦だったようだ、と、私に教えてくれたのは舟宮糸子であった。彼女は、”闇彦は、神代において天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の間に生まれた神々・海彦と山彦の兄弟だった可能性がある”と示唆してきたのだ。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメには、三柱の神が生まれている。すなわち、火照命(ほでりのみこと)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほおりのみこと)の三柱で、ホデリは海の世界を支配する海彦ホオリは山野の世界を支配する山彦として『古事記』に登場するのだが、不思議なことに真ん中のホスセリについては、誕生したという以外に詳しい記述がないのである。何を司る神なのかも知られていない。糸子のお婆あは、このホスセリこそが闇彦として死の世界を支配するようになったのだと、糸子に教える。ホスセリ=闇彦ということが知られていないのは、死に関する神であるために、あからさまに語られることがはばかられたからである、と…。この闇彦の血脈が一部人間(じんかん)に伝わり、舟宮姓を名乗る人々に死者を語る能力が備わったのだ、と…。

 このことは勿論、作者・阿刀田高氏の創作であるが、ホスセリが死を支配する闇彦であると空想してみるのは非常に面白い。闇彦の血を受け継ぐ者に「舟」の文字が冠されているのも、「御舟入り」という言葉が死者の弔い・葬儀を意味するように、死の世界を暗示するからだろう。「舟宮」とは言うなれば、闇彦(ホスセリ)が密やかに生き続ける「死の宮殿」なのである。闇に隠れたホスセリは、もはや神話の表舞台には現れない。現れないが、しかし、確実に存在し、生きとし生ける者の命数を、その手に握っているのである。

 加えて、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に、死を司る神が誕生したと考えてみることがとても興味深いのである。実はニニギノミコトには、もう一人、娶るべき姫がいた。それは、コノハナサクヤヒメの姉・磐長姫(いわながひめ)である。コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの父・大山祇神(おおやまつみのかみ)は姉妹二人ともをニニギノミコトに娶(めあ)わせようとした。なぜなら、イワナガヒメは、磐(いわ)が永くその姿を保つようにニニギノミコトの弥栄(いやさか)を寿(ことほ)ぐ役割を担っていたからである。ところが、ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけを嫁入らせ、器量の悪いイワナガヒメはオオヤマツミノカミに返してしまった。舅であるオオヤマツミノカミは落胆する。そして、こういう言葉を発するのだ。「コノハナサクヤヒメは、ニニギノミコトの世を美しく繁栄させはするが、花の命が短いように、彼の世も永くは保てないであろう」。

 ニニギノミコトはイワナガヒメを拒絶したことで、コノハナサクヤヒメとの間に闇彦を生(な)すことになったのかもしれない。上記の神話は、ニニギノミコトから連なる子孫の歴代天皇が、神々ほどには寿命を永く保てなくなった、限りある生命となったということの原因譚として読めるのだけれども、もっと云えば、人間の世界にはっきりと「死」がもたらされるようになったということの原因譚でもあるように思える。ニニギノミコト以前にも、イザナギとイザナミが人間の生死に関して呪詛と寿ぎを投げかけ合ったことがあったが、ニニギノミコトの代になって、命あるものは皆ひとしなみに死ぬということが決定的になった、そんな印象だ。闇彦は、本作品における想像上の神ではあるが、その神を、永遠の生命を蹴ってしまったニニギノミコトの子としてあてがっているところに、作者・阿刀田高氏の意図が見えるのである。

 人が物語を好む理由―――それは、物語りするという行為のそもそもの発端が、失われた愛する者たちの面影や思い出を心に刻みつけて共に生きたいと願う、強い祈りにあるからではないのか。命あるものが闇彦の存在によってモータルなものとされたことで、人類は語り継ぐことでしか永遠を手に入れられなくなってしまった。しかし、だからこそ幾多の物語は生まれ、幾世代にもわたって継承され、今もなお新しい物語が生まれ続けているのではないか。物語の根本は、死を受け入れて、死者の顔を、生涯を、死者と自分が生前どのような形で関わったかを反芻する営みである。ホスセリノミコトとして生まれ、闇彦として存することとなった一柱の神が、我々に「今は亡き、愛する者たちを物語れ」とささやいてくる。現代のあまたある物語がどんなに軽佻浮薄なものになろうとも、この闇彦のささやきがある限り、決して廃れることはあるまい。



 君を憶えている。君を憶えているよ―――。
吾(われ)もまた、突然闇彦の国へと旅立った人々を思い出す。


 君の、闘病むなしく鬼籍に入ったことを聞かされたとき、君も吾もまだ小学生で、よもや級友が亡くなろうとは思いもよらなかったのだ。君が住んでいた邸の前を時おり通ることがある。廃墟となった君の邸は今ではもう、ひどく蔦まみれで…。君という愛息を失ったご両親は、何処でどうしておいでであろう。君の家の二階の窓から、小学生のままの君が顔をのぞかせることがあるのではないかと、吾はつい、蔦の隙間の窓硝子を見上げてしまうのだ。

 君が水底に沈んだとき、君の姉さんは悲しみをぐっと堪えていた。吾は今でも菩提寺への墓参の際に、君が沈んだ池の小道をめぐるのだ。中学生になれなかった君。青空のもと、睡蓮が清らかに咲く頃には、君の幼い顔もぽっかりと、蓮ともどもに咲いていることもあるのではと、吾はつい池の水面を、見守ることもあるのだよ。

 あなたが自らの身を焼いたその場所に、鉄塔が高く高くそびえていたっけ。その鉄塔は今でもあって、灰色の骨を晒しています。今も静かな山のふもとに、あなたの家も残っています。あなたが死を選ばざるを得なかった、その苦しみや悲しみの、因(もと)がその家にあったとしても、今も静かにあなたの家は、夕暮れの中に佇んでいて…。夕日が鉄塔に当たるとき、あなたを焼いた炎(ほむら)のように、赤く赤く染まるのを、吾は時折見ています。

 神戸を襲った大震災で、君はあっけなく逝ってしまった。なぜ震災の前の日に、君は神戸を訪ねたりした? ほんの一日違(たが)えていれば、君は今も吾と同じ、齢になっていたことだろう。君が神戸を訪れたとき、君の命があと一日も、残されてはいなかったことを、一体誰が知りえただろう。君が大人になって着るはずだった、仕立て上がりの振袖は、袖とおす主を失ったまま、畳まれたままに眠っている。

 ―――不慮の死を遂げた人々のことを思い出すたび、吾は、闇彦の国、すなわち死とは、暗渠(あんきょ)のようなものだと思いなす。この世に縦横無尽に張り巡らされた、実は我々の足元にも確実に流れている暗渠。普段はなかなか見えないが、ふとした折に、その滔々と流れる黒い水が現れることがある。全ての命を呑みこみ、溶け込ましていきそうなとろとろとした黒い水が、静かに静かに流れているのを覗きこめる時があるのだ。その黒い面(おもて)に自分の顔がくっきりと映る時、我々は心ならずもハッとする。(嗚呼、いつか吾もこの闇彦の国に、ひらりと旅立っていくのだ)と、今さらながらに認めることになるからである。

 関わりのあった人々が失われていくごとに、自分もまた少しずつ死んでいっているのかもしれない、と思う。あの子と遊んだ自分、あの人と語らった自分、さまざまな関係性の中でしか生きられないのが人間だから、その関係が死によって絶たれるたびに、その関係によって定義されていたはずの自分も死んでいくのだ。だから人は、物語ることによって、その失われた関係性を補っていくのに違いない。それでもそうして、自分の周囲が削られていって、最後に残った芯のような部分が死を迎えるとき、それが、自分というものの生物的な死なのだろうと思う。

 吾は今日も暗渠を覗く。
そして、闇彦がずいぶんと身近にいることを確かめる。
死はいつか吾をも襲う。
しかし、そのときが来たら、着慣れた着物に身を包んで、白い足袋などもう要らぬから、気持ちよく素裸足になって、パラソル片手に、滔々と流れる黒い水の中へと溶けていきたい。
自分もまた、誰かに語られ、思い出されることを夢想しながら…。


                     平成二十三年五月四日 読了

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山田ギョクト

Author:山田ギョクト
一九七五年生。
十八歳までを山口県で過ごし、十八歳から三十三歳までを京都府で過ごす。
現在、再び山口県に帰り、隠遁生活中。
感想や書評付きの蔵書録を作るつもりで、自宅にある本について記事を書こうと計画を進めている。
しかし、本が増えるので一向に追いつかない。
「行間からどれだけのものが読み取れるか」をモットーにしているため、一冊一冊の書評がかなりの長文になるのが良くもあり悪くもあり。
キャレル内ではお静かに。
コメント欄を閉じています。

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